我乍ら影響され易い性質というのは困り者だなと日々思うのですが、社会生活を営むことは良くも悪くも誰彼との交流を経てこそ成るもの、とそんな大それた事を考えるまでもなく、例えば日々の食事においても、きっと我々は何かしら他者の命をその身に取り込むのですから、そうして身体を補い生きているのですから、まずそこに影響を受けず我々が我々として在ることなどは出来ない事でしょう。多かれ少なかれ自己というのは他者への依存無くしてはおよそ成立しないものなのです……何てちょいと胡散臭げな言い訳をしつつ過ごす毎日です。説話集なんてのを調べつつ腰を据えて読んでいると、ちょっとした事にさえ妙な考えになるものですね。これも影響。
さてこちらは前回の投稿をお読み下さった方、前回紹介した書籍を読了なされた方はフフンと気付かれたことでしょうか。日本近代児童文学のパイオニア、巌谷先生の処女作品を読んでみました。
さて、お話の要約ですが簡単に。さる山に住まう金眸なる大虎、手下に聴水なる狐。これに命を取られた忠犬の月丸と、無念のうちに衰え果てた妻の花瀬。一粒種の黄金丸は、同じく荘官の家に住まう文角牡丹の夫婦牛に立派に育てられ、かの金眸聴水を親の仇と定めて旅立つというお話。
お話の中には他にも、猟犬の鷲郎や鼠の阿駒、兎の朱目といった仲間を得たり、黒猫の烏円や猿の黒衣といった敵役が登場したりで、仇討ちという勧善懲悪譚にしていかにもコテコテな冒険活劇。この頃は穉物語といったそうですが、なるほど児童文学といった感じの物語構成です。
ただ、筆者は本書を青空文庫で読みましたが、面白いことに全文古文調の文章で記述されています。勿論古文「調」であり言葉遣いそのものは旧い雰囲気でありながら近代頃のもので、古文が苦手な方でも苦労せず読み進める事が出来るかと思います。この書き方は狙ったものなのでしょうが、いかにも昔話的な、御伽草子的な表現として興味深く感じました。
同様に文章構成もまた、児童文学のお手本のように思いました。本書の最初に書かれていますが、文章自体に妙味ある修飾などは無く、言ってみれば「書かれている通りに物語が進んでいる」感じ。起承転結というと少々語弊がありますが、途中途中で心理描写が加わったりということもなく、物語が物語としてのみ進行し、読み進めるのに引っ掛かりがありません。
またその物語自体、王道にして骨子の確とした構成ですから、これは文字が読めれば本当に児童でも面白く読めるのではないかなと想像します。本が嫌いな子の導入として良さそうです。(尤も、現代では古文調なトコロが引っ掛かるかも知れませんが……。)
そんな感じですが、敢えて重ねて言いますと、本当に王道的物語です。以前紹介させて頂きました「ガリバー旅行記/ジョナサン・スイフト 著」「お伽草子/太宰治 著」といったウラのある物語とは異なりますので、そうした期待は残念ですが脇に退けて読みましょう(笑 それでも王道と莫迦にする勿れ、純粋に感動できます。涙あり興奮あり、王道の王道たる所以ここに在り、といった感じです。
ところで本書は明治二四年頃の作品ということですが、この頃といえば所謂近代文学の色濃い時代だったのではないかと思います。筆者の大好きな夏目先生も、遅れること十四年ですが「吾輩は猫である」を発表し、執筆活動を通して哲学的思想の表現のようなものが多く占めていたのではないか、と素人考えに想像するのですが、その只中にあって児童「文学」を志すというのは興味深いです。この頃の識字率がどうなのか筆者は存じませんが、どうであれ対象とする読者を児童に向けるというのは並々ならない努力を要したのではないでしょうか。
てなわけでまた改めて京極先生の「書楼弔堂 破暁/探書伍 闕如」を読むとまた、感慨深いものがあります。ウン結局そこに行き着くんだな筆者は。
そんな感じで。