巻頭歌
胎児よ
胎児よ
何故躍る
母親の心がわかって
おそろしいのか
最初に。
本小説を読むに当たっては、筆者の紹介よりも息子が「ドグラ・マグラ」という本を持ってます 表紙のイラストが怪しげです 裏表... - Yahoo!知恵袋のベスト・アンサー紹介文が実に的を射ておりましょう。
必見です。
良書は何度読み返しても面白いものです。読めば読む程味わい深く、噛み締める程に新たなる発見がじわりと滲み……まあ程度にも依りますけれどもね。
そんなわけで改めて読み返しまして。三大奇書の一書。素敵な響きですね。「日本異端文学史上の三大偉業」「日本探偵小説の三大巨峰」「日本アンチミステリの三大巨篇」なんても呼ばれるそうです。荘厳な響きですね。実に期待は高まるばかり。
しかしてその実態たるや、期待に十二分に応え得る、濃密濃厚に濃縮された小説です。怪奇と、神秘と、幻惑と、妖艶と、エログロナンセンス種々雑多を闇鍋仕立てに盛り込んで、食えるもんなら食ってみろと言わんばかりの小説です。そうしていざ食してみると、悪寒はするわ冷や汗垂れるわ、一口毎に眉間に皺寄り五感を痺らせ、最後の一口までふうふうと食して――そんな読後感ばかりが後頭部あたりにシクシクと残るという、えらくオモシロオソロシイ小説です。
こんな小説が、筆者は大好きなのです(笑
さて。冒頭に引用した巻頭歌ですが、何とも見事な出だしです。タッタ五行で読者の心をグッと鷲掴みです。
歌として完結したこの五行、チラリと見るだけでも全文が頭に入ります。試してみると解りますが、一寸見詰めてのちにこの文句、ソラでサラリと読まれるでしょう。そうして何とも神秘的な……胎児と母親、という語がそれを彷彿とさせるものでしょうか。されど厭に不穏当な……心がわかっておそろしい、という句が社会性のある人の心を打つものでしょうか。また胎児に対しての躍るという表現、胎児の母親に対してのおそろしいという表現と、いずれも何処か、何故か、我々の普段想像するそうしたものとは一線を画した、歪な後味を残します。「……?? 何だろう、これは……?」と感じたなら、もう心は歌に囚われたようなものでしょう。さあ読みましょう直ぐ読みましょう。
読み進めるうち、物語の根幹を組み立てていく様々な断片的資料が、まるで泡沫のように浮かんでは消え、消えては浮かみ、主人公と読者を惑わします。主人公の立つ舞台もまた、変わらぬ場所でありながら移ろい、かと思えば立ち返り、確固たる足場さえ危ぶませます。唯物科学に生きる人間の、よすがとするもののまるで無い、精神科学の薄暗がりで、タッタ一足誤てば、真っ逆さまに奈落の底……といった、正気と狂気の綱渡りのような心境を覚えます。ここまでくれば読者諸氏も、些か感情移入気味に「エッ……ナナ何だコレは……ブルブル……」とでも感じるかも知れません。感じるんじゃないかな。どうかな。
最後の最後ドン詰まりには、遂にその物語の正体……主人公の正体がドウだとか、一連の狂気の確信犯がダレだとか、ソンナ小さな事ではない、物語の本当の正体が霧の晴れるように明らかとなり、読者をウーンと唸らせます。唸るんじゃないかな。どうかな。そうして遂には巻頭歌の意図するところも判明し、ドグラ・マグラの表題よろしく堂廻り目眩み、戸惑い面喰らいして「……ナンダ、ナンナンダコレハ……」といった感じに読者諸氏の見聞きされているものさえ信用ならなくなるという……。
つまりその。総じて申しますと、何だこりゃー、な小説なわけです。アレ、まとめると何か違った意味に捉えられてしまうな。オカシイナァ……。
戯言はさておき、Wikipediaをして「まともに要約することは到底不可能な奇書」と言わしめる本小説。根幹たるコトは確かにあり、それは筆者が思うに「心理遺伝」「脳髄論」の二点に絞られるわけですが、それすらも物語全体のうえではエッセンスでしかないようにも思われます。かと言って主人公たる「私」を主軸に据えても物語全体を俯瞰するに足りず、他の登場人物を据えてもいずれ物語の一部にしかならず。更には解釈次第で物語性さえも多岐に亘るという……マルチエンディングと言うと全くの語弊ですが、そうした雰囲気すらある小説で、確かにこれは「さて概要は」と一筋縄にいかない、感想を述べるには実に厄介なシロモノです。
そういうわけで概要は置いておくとして。複雑怪奇なこの小説、いつも通り「登場人物」「物語の構成」にて紹介させて戴きます。
まずは主要人物紹介。
- 私
物語の主人公。目を覚ますとそこは九州大学精神病科の第七号室で、隣からは自分をお兄様と呼ぶ少女の声がする。しかし本人は、自分の名前さえも解らない「自我忘失症」に陥っていた。 若林 鏡太郎
九州帝国大学法医学教授にして医学部長。法医学の権威で、主人公の記憶回復を助けるべく、精神病科研究資料標本を遺した正木教授室へと誘う。喘息を持病に持つ。正木 敬之
九州帝国大学精神病学教授。「心理遺伝」「脳髄論」を発案、研究。若林教授と同様、主人公の記憶回復を助けるべく対談する。禿頭眉無し鼻眼鏡。ハバナ吸い過ぎ。呉 一郎
心理遺伝の発作を起こし、狂人解放治療場へ収容された美少年。あれは僕の鍬なのです。呉 千世子
一郎の実母。刺繍が達者で「縫い潰し」という、知られざる昔の技術を持つ。福岡の直方にて女塾を開く。美人。呉 八代子
千世子の姉、一郎の伯母。福岡の姪之浜の大百姓の家柄。呉 モヨ子
八代子の娘、一郎の許婚。先祖の六美女にも劣らぬ器量良しで、唐時代の黛女にも生き写しだとか。呉 虹汀
呉家四十九代の祖、旧名は美登利屋 坪太郎 。二十五で出家し西方への旅路にて六美女を助け、呉家の血筋を祟る絵巻物を焼いて供養したという。六美女
浜崎に住んでいた呉家の一人娘で、身の不幸を嘆き投身自殺を図ったところを虹汀に助けられた。後に虹汀と共に姪之浜へと移り住んだ。呉 青秀
玄宗皇帝の時代の青年進士にして天才絵師。皇帝より黛女を細君として貰い受けるが、折しも大唐朝没落の兆しある時代、皇帝への戒めとして一巻の絵巻物の制作に着手する。黛
青秀の妻。絵巻物制作のため、その命を青秀に託す。芬
黛女の双子の妹。かつての我家に帰った青秀を匿い、共に難波津へ向かう勃海使船へ乗船して日本へと向かう。船中にて、航海中に投身自殺した青秀の遺児を産み落とす。
こんな所でしょうか。人物紹介だけでも割と複雑です。呉虹汀以下は小説中の資料内にのみ登場する人物になります。当代のみを舞台とせず中世日本、古代中国の物語まで盛り込まれている点も、本小説の興味深い、また面白い点ですね。
続いて物語の構成です。「自我忘失症」に罹った主人公の眼前に、物語の断片をなす資料が次々とタタキ付けられ、いつしか主人公はそのオソロシイ物語を明らかにしていく……と言えば言えなくもない小説の流れですが、その断片的資料というのが曲者です。実に多種多様なその資料を、ここではざっくりまとめてみます。
なおここで表記した起承転結ですが、筆者の主観的判断による分類となっていますので、実際その通りに当て嵌るとは限らない事をご了承ください。
- 起
主人公の居場所に関する私見、それから若林博士との対談。若林博士は実に言葉を選びに選び抜いた丁寧かつ慎重な語り口で、医師と患者という立場の違いを創り出す。半ば一方的に語られる主人公の立場はまるで読者自身に語りかけられているような錯覚を受け、否が応にも感情移入させられていく。 - 承
正木博士の遺した資料の数々。年代順で提示されてはいないが、その順で読み進めることで正木博士の事績を正しく理解し、同時に主人公の記憶も戻るという。- 「キチガイ地獄外道祭文 ――一名、狂人の暗黒時代――」
面黒楼 万児 名義で配布された、正木博士の近代精神病院へのアンチテーゼ。チャカポコチャカポコ。全体がおおよそ七七調に綴られたこの祭文、これだけの長文を小気味良い音頭で語り尽くすのはスゴい。 - 「地球表面は狂人の一大解放治療場」
取材形式で語られる、正木博士の目論む「解放治療」に関する概要。割と短かめ。 - 「絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず ==正木博士の学位論文内容==」
これまた取材形式で語られる、正木博士の学位論文「脳髄論」の説明。内容は風変りな探偵小説形式(というか探偵小説で云うところの種明かし部分に相当)で進められる。前述の資料とこれの二点で、唯物科学万能の世間を大いに皮肉るところが気持ち良い。アンポンタン・ポカン博士の演説は筆者一押し。 - 「胎児の夢」
正木博士の卒業論文。母の胎内に居る十箇月を、胎児の見る夢物語として説明する。この内容はナカナカ精神的に来る。 - 「空前絶後の遺言書 ――大正十五年十月十九日夜」
正木博士の自殺前夜の手記。なのだが、ナレーション入り活動写真を覗いたような砕けた調子で、話もあちらこちらへと散漫に飛びつつ進められる。その内訳は以下のように多岐に亘る。- 狂人解放治療場と十名の患者の様子
- 心理遺伝の説明
- 実験材料たる呉一郎の様子
- 呉モヨ子の生きた亡者となる過程
- 一連の惨殺事件に関する正木博士と若林博士の対談
- 心理遺伝付録 その一 呉一郎の発作顛末
- 呉一郎からの聴取、呉八代子からの聴取、松村マツ子からの聴取、およびそれらに対する正木博士の見解。
- 心理遺伝付録 第二回の発作
- 戸倉仙五郎からの聴取、青黛山如月寺縁起、野見山法倫からの聴取、呉八代子からの再聴取、およびそれらに対する正木博士の見解。
- 福岡地方裁判所における正木博士の呉一郎引取りの一場面
- 狂人解放治療場における呉一郎の様子
- ムニャムニャ ムニャムニャムニャムニャムニャムニャムニャ……
いかにも散文的だが、基本は呉一郎という実験材料についての詳解。このうち「呉モヨ子の生きた亡者となる過程」は重要ながら、呉一郎に関する説明材料としては間接的。また「心理遺伝付録 第二回の発作」における「青黛山如月寺縁起」は古文調の所謂縁起譚で、呉虹汀と六美女の昔話となっている。
補足として、松村マツ子は呉千世子が過去に通っていた翠糸女塾の主、戸倉仙五郎は呉八代子方の常雇農夫、青黛山如月寺は呉家の檀那寺(とは書かれていないが実質的にそう)、野見山法倫は如月寺の和尚。
- 「キチガイ地獄外道祭文 ――一名、狂人の暗黒時代――」
- 転
正木博士との対談。ここで提示される資料の内訳は、離魂病の説明、キーアイテムである絵巻物とその由来記の写しの読み下し、呉家の血筋の発狂のメカニズム、そして……。
補足として「絵巻物の由来記の写し」の内容は青黛山如月寺縁起よりも更に古く一千百余年前の話とされており、呉青秀と黛、芬の昔話となっている。 - 結
そして誰も居な(略
主人公一人による状況整理の形式。駄目押しのように「絵巻物の続き」「八枚の号外記事」そして「官製葉書裏面の走り書き」を見付け、主人公は……。
詳しくまとめたように見えるかも知れませんが、多分未読の方には話の筋まで読めないだろうと思われます。むしろ読めたら凄い。きっと呉家の血筋に違いない。
小説内では所々で主人公の疑問や解釈、それに対する両博士の説明などが織り交ざり、読書中には筋道を順当に踏んでいないような印象を受けていました。けれどこうしてまとめ、改めて全体を俯瞰しますと、起承転結の流れを割と確り踏襲した物語構成になっているように思われます。
更に振り返ってみますと、どうもこの読書中の印象というのは「精神科学的に正しい筋道を、唯物科学的に見た為に生じる綻び」であり、主人公に感情移入した読者の起こすミスリード、という形式になっているのかなと感じます。そう見ると(読み進め難さというデメリットはあれ)読者を混乱の渦中へ惑わせる演出として実に効果的です。
結末では、これまでの断片的資料が一つの不気味な物語として繋ぎ合わさり、同時にあらゆる疑問が氷塊します。……何て書くと一般的な推理小説における種明かしのような、おおよそ物語の概要と核心を説明し得るもののように思われるかも知れません。どっこい本小説ではそれ程単純な構成ではなく、それがまたオモシロオソロシイ所以なわけです。同時に紹介にあたり一番厄介な点にもなるわけですが……。
結末にて提示される諸事は、主人公がこれまで綻びのように感じてきた数々の疑問に対する答え合わせにはなりますが、物語の根本解決という点において何らの意味も果たさないのです。唯一絶対の答えに至る筋道の断絶された結末、想像の数だけ幽鬼の如く立ち現れる結末、唯物科学の脳髄では至る事の出来ない結末。だからこそ本小説は「まともに要約することは到底不可能な奇書」なのかな、なぞと筆者は思います。
色々と分類し書き連ねてはみましたが、やはりこの小説のオモシロオソロシさはまず読んでみないと解りません。そしてまず読んだ程度では解りません。途中途中で読み返しても良いですが、やはり都合二順くらいは読み返したいところです。
未読の方は、是非腰を据えてじっくり読み、物を考える脳髄を地上にタタキ付け踏み潰しましょう(笑
最後に。
本小説を読了されたならば、筆者の紹介よりもドグラ・マグラ - アンサイクロペディアの記事が実に正鵠を得ておりましょう。
必見です。
そんな感じで。