まとまった連休が取れたので親友と二人旅をしてきました。基本的には温泉を愉しみつつ日頃の疲れを癒やす目的でしたが、無計画を常とする筆者と親友は今回も例に洩れず日程ギリギリで行先を決めたのでした。岩手は花巻温泉郷、宮沢賢治先生の愛した温泉地なのだそうです。
青空文庫で何冊か読みましたが、月並乍ら先生の作品は「風の又三郎」「注文の多い料理店」等、童話チックな作品こそが映えると筆者は思います。特に語り口調の表現はそうした作品と実に調和しており、幻想世界の描写が非常に美しいのです。その世界観はまた牧歌的であるばかりでなく、何処か黄昏にも似た侘しさであったり、木陰に潜む何者かのようなうそ寒さを含んでいます。けれどそれは決して劇的ではなく、静かな湖面がその内側からユラリと波立つような妖しさで。湖底に潜む何者かは決して姿を現さない、その正体が詳らかになることはないのですが、ただそれが先生の作品の魅せる幻想であると……些か抽象的に過ぎますが、筆者は先生の作品をそのように捉えております。
そんな宮沢先生のお生れは丁度今回の旅先である岩手花巻なのでした、というのは旅から帰った後で知ったわけですが(汗
しかしそんな事実もまた、成程なあと納得してしまうところがありまして。というのも、岩手といえば妖怪莫迦には外せない遠野郷。柳田國男先生の編纂された「遠野物語」で有名ですが、宮沢先生の作品はかの近代妖怪譚の雰囲気をどことなく彷彿とさせるところがあると筆者は感じるのです。また遠野郷が花巻からは車で大体一時間強でして、決して近いとは言えないかも知れませんが、およそ源流はそうした土地柄にあるのではないかな、と思うわけなのです。
前置きが長くなりました。しかも今回の紹介は宮沢先生の作品じゃないってのに(汗
まあそんなこんなの旅の最終日に、久方振りに遠野へも足を運びまして。以前四、五年前に一人旅で訪れた事があったのですが、ウーンちょっと雰囲気が変わったかしらん? 色々と合理的になってしまったような印象……もう少しこう、小ぢんまりとしながらも街頭オブジェやらそこかしこのお土産屋やら、わちゃわちゃしてて昭和的な雰囲気があったんですが。思い出が美化されてるかな……さておき。
最後のお土産を選ぶ段になり、駅前の交流センターに入ったところ見覚えのある著者の本が……。最近新刊の確認を怠っていましたが、いつの間にやらこんなの出版してたんですねー。これもまた出会いだなあ、という事で、帰りの電車内で読もうと購入しました。
今回は特に物語の内容については言及せずにおこうと思います。というのも、物語自体は柳田先生著「遠野物語」に沿ったものなので。遠野郷の佐々木鏡石氏の語った民話伝承を蒐集した短編集的なものですね。何処から読み進めてもあまり困る事はありませんし、一節ごとの物語は二、三頁程度の非常に短いものです。そして各節の文章は「遠野物語」本来の内容を変えないまま京極先生テイストに書き下されており、今様の文章として楽しむことができます。近代文学と現代小説のコラボレーションといったところでしょうか。
また、本書では京極夏彦先生の解釈で「感じたるままを傳へらるるやう」物語の順序を直しているようです。物語構成はopeningとending、それから本文は大きくA part、B part、C partの三つに分かれています。大体の内訳は以下の通り。
- opening
- 京極先生の本書についての前置き
- A part
- 柳田先生による遠野と近隣の土地の詳細や名前の由来
- 山男、山女の話
- 河童の話
- 経立の話
- B part
- 柳田先生の遠野の印象
- オシラサマ、オクナイサマ、ゴンゲサマ、コンセイサマ、カクラサマなど神様に関する話
- 民間信仰の話
- ダンノハナ、
蓮台 野の風習 - 座敷童子の話
- 狐の話
- 天狗の話
- 山の神の話
- マヨイガの話
- 生霊、死霊の話
- 蜃気楼の話
- C part
- 柳田先生の「遠野物語」に関するスタンス
- ヤマハハの話
郭公 と時鳥 、オット鳥、馬追い鳥など鳥に関する話- 池ノ端の石臼の話
- 川井村の長者の娘の話
- 遠野三山の女神の話
- ending
- 遠野郷の獅子踊りの際に用いられる歌を京極先生の解説文と共に紹介
といったところで読後所感ですが、ウーン正直筆者には、この順序変換の意図が解りません。全体的な流れとしては可もなく不可もなく、といった感じですが、A partとB partに山の神ないし山男、山女の話がありますし、B partで神様の話がまとまっているのに遠野三山の女神の話はC partに載せていたり。
B partは遠野の民俗的な部分をまとめてあるのだな、というのは感じられますが、するとA partはもう少し遠野という場所的なまとまりなのかな、と思いきや、所謂妖怪的な話も含んでいたり。C partに至っては何というか、その他諸々のようにしか。とすると、分類的な意味は無いのかな……? 筆者の読みが足りないのだろうとは思うのですが、ちょっと謎です。
文章はやはり、美文ですね。そしてミステリ小説チックな筆致がいかにも京極節で、ワクワクとして読み進める楽しさを十分に味わう事ができます。ただ、これは前提ですから当然な話ですが、物語自体が「遠野物語」です。なので逆説的ながら前置きに書いたように幻想小説然とした内容で、多くその結末はぼかされた感じに終わります。そうした意味では物足りないというか、尻切れ蜻蛉な物語ばかりです。いつもの先生のミステリ小説と同じような期待をして読むと、これはちょっとガッカリするかも知れません。
個人的には「遠野物語」を読み解くうえで先に読んでおく、参考文献的なものと考えた方が価値があるように感じました。文章自体は先に申しました通り美文で読み易いので、民俗学的知見を得るための取っ掛かりとしてとか、遠野の民話伝承を知る始めの一歩とか、小説を嗜みつつ学べるという観点からお勧めできると思います。
余談ですが、交流センターでは同時に「水木しげるの遠野物語/柳田國男 原作、水木しげる 著」も購入、こちらもオモシロオソロシく楽しませて頂きました。発刊は二〇一〇年でしたが、この年は「遠野物語」発刊百周年だったんですね。妖怪の歴史を感じる……と共に、水木先生の御壮健なる事にも喜びと驚きとを感じました。確か今年で九十一歳。この前ハンバーガー食されてましたっけ。「食べタイ。買ってこい」って……偉大なる妖怪先生に乾杯! いつまでもお元気で長生きして頂きたいですね。
そんな感じで。