黒死館殺人事件/小栗虫太郎 著

水精よ、蜿くれウンディヌス・ジッヒ・ウィンデン
風精よ、消え失せよジルフス・フェルシュヴィンデン
火精よ、燃えたけれザラマンダー・ゾル・グルーエン
地精よ、いそしめコボルト・ジッヒ・ミューエン

 ここひと月程は私事でイベントが盛り沢山、仕事で業務が盛り沢山……何だかよく判らない波に呑まれて翻弄されたような生活でした。もう少しゆっくりと生活したいものです。
 そんな中ようやっと三大奇書の一書にして法水麟太郎シリーズの第三作目にあたる本書を読んだのですが、長編読むとどうしても間が開いてしまいますね。これは仕方無い。加えて悩ましい事にはやはり小栗先生の文章は読み進め難い……更に今回は衒学も衒学、これ頭からお尻まで完全に腹に落とし込んで読める方って居らっしゃるのでしょうか……少なくとも筆者には無理でした。ミステリなのに何がどうしてこうなったのか解りません。まさにミステリ。

 さていつもの通り、概要を記しておこうと思います。
 神奈川県北相模に建つケルト・ルネサンス式の城館、通称黒死館。臼杵耶蘇会神学林以来の神聖家族と云われる降矢木家の館で、惨劇は起こるべくして起きた。最初の被害者は黒死館前当主の夫人、グレーテ・ダンネベルク。死因となった毒物は彼女の食した洋橙の一房のみに仕込まれていたが、その恐ろしい偶然も然る事乍ら、その遺体の発した怪奇なる栄光、そして両のこめかみに刻まれた二十八葉橄欖冠にじゅうはちようかんらんかんの紋章……。しかしそのオカルティズム甚だしい殺人事件は、ただの幕開けに過ぎなかった。
 連続殺人事件です。考えてみれば警察だの捜査官が同居する場所で次々と殺人を犯すというのも物凄い感覚ですね。尤も同じ人間同士、と考えれば然程の事でも無いのかしらん? そこの所は同じ立場になった事が無いのでどうにも解り兼ねるところです。あまり解りたいとも思いませんが……さておき。
 今回は登場人物盛り沢山。

  • 法水 麟太郎のりみず りんたろう
    一流の刑事弁護士。主人公。一月二十八日朝、支倉に事件を持ち込まれて本件に関わる。今回衒学趣味にものを云わせて恫喝訊問しまくり。
  • 支倉はぜくら
    法水と親しい検事。今回は熊城捜査局長と同じくらい横柄な態度な気がする。半分くらい法水の衒学趣味の所為だと思う。でもコイツも人の事言えないと思う。
  • 熊城 卓吉くましろ たくきち
    法水に横柄な捜査局長。法水と支倉と三人で事件解決に向け奔走し、支倉同様法水の衒学趣味に業を煮やす。ところで三者共似たり寄ったりな衒学趣味としか思われないやり取りに終始しやがる件については。
  • 乙骨 耕安おとぼね こうあん
    警視庁鑑識医師。こちらは医学的心理学的に衒学趣味……何だろう、類は友を呼ぶのかしらん。
  • 降矢木 算哲ふりやぎ さんてつ
    故人、十月前に他界。前名は鯉吉。降矢木の館、通称黒死館の前当主で医学博士。カテリナ・ディ・メディチの隠し子は残虐性犯罪者だったといわれるが、その血筋から十三世目。古代呪法に通じ、ウイチグス呪法典他を所蔵。自身は黒死館に住まず、黒死館の建設後僅か五年で館の内部を大改装している。死因は短剣による心臓への刺傷で、自殺とされている。
  • クロード・ディグスビイ
    故人。英人技師。算哲に派遣され、また妻テレーズの餞として黒死館を建設。死因は帰国の船中蘭貢ラングーンでの身投げ。
  • テレーズ・シニヨレ
    故人。ディグスビイの夫人。死因は帰国の船中蘭貢にて再帰熱を発し病死。
  • 降矢木 伝次郎ふりやぎ でんじろう
    故人、明治二九年に他界。本件から三十余年前とされる。算哲の弟にあたり、彼の代わりに黒死館に住んでいた。死因はみさほによる紙切刀での頚動脈切断。黒死館で起きた第一の変死事件。
  • 神鳥 みさほかんどり みさほ
    故人、伝次郎と同現場で自殺。伝次郎の愛妾。
  • 降矢木 筆子ふりやぎ ふでこ
    故人、明治三五年に他界。伝次郎の正妻で、彼と共に黒死館に住んでいた。死因は鯛十郎による絞殺。黒死館で起きた第二の変死事件。
  • 嵐 鯛十郎あらし たいじゅうろう
    故人、筆子と同現場で縊死。筆子の寵愛を受けていた上方役者。
  • 降矢木 旗太郎ふりやぎ はたたろう
    黒死館の現当主、御年十七。算哲と、その愛妾の岩間富枝との間に生まれる。作中ではあまりパッとしない役回りな気が。旗太郎は宙に浮びて殺さるべし。
  • グレーテ・ダンネベルク
    算哲の夫人、弦楽四重奏団の第一提琴ヴァイオリン奏者。本件第一の犠牲者、死因は果物に仕込まれた青酸毒による中毒死だが、その毒はブラッド・オレンジのたった一房にしか仕込まれていなかった。また死体は青白い光を放ち、こめかみの両方に降矢木家の紋章の一部が擦切創として残るという不可解な状態だった。ダンネベルク以下四名は揺籠の頃から四十年来、館から出ずに居るという。グレーテは栄光に輝きて殺さるべし。
  • ガリバルダ・セレナ
    弦楽四重奏団の第二提琴奏者。えっと、脇役? ガリバルタは逆さになりて殺さるべし。
  • オリガ・クリヴォフ
    弦楽四重奏団のヴィオラ奏者。割と散々な目に遭う犠牲者。まず事件前日の夜、錠を下ろした筈の寝室に背の高い痩せぎすな男らしき者に進入される。また本館二階で休んでいたところをフィンランダー式火術弩で打たれ、当たりはしないもののが頭髪に絡んで窓から放り出されて宙吊りにされる。しまいに年一回の公開演奏会で、二叉に先の分かれた槍尖で刺殺された。オリガは眼を覆われて殺さるべし。
  • オットカール・レヴェズ
    弦楽四重奏団のチェロ奏者。終始法水に弄くり倒されてたような印象……。オットカールは吊されて殺さるべし。
  • 押鐘 津多子おしがね つたこ
    算哲の異母姪で童吉の夫人。大正の新劇女優。隻眼。時間的には本件第一の被害者、ただし生存。古代時計室にて木乃伊のように毛布に包まれ、薬物で眠らされていたところを法水達に発見される。
  • 押鐘 童吉おしがね どうきち
    医学博士で東京神恵病院長。算哲の遺言書を預かり、死後一年目に開くよう申し渡されていた。
  • 紙谷 伸子かみたに のぶこ
    算哲の秘書。易介発見の折、鐘楼の鳴鐘器前で奇妙な姿勢のまま硬直気絶していたところを法水達に発見される。
  • 川那部 易介かわなべ えきすけ
    給仕長。侏儒こびとで傴僂せむし。幼い頃から黒死館で育ち、御年四四。本件第二の犠牲者、死因は窒息死。ところがその咽頭に不可解な二条の切創をうけていた。同様に不可解な事には、彼は吊具足を横にして挟まれるように着せられ、兜に頭蓋を圧迫された形になっていた。易介は挟まれて殺さるべし。
  • 久我 鎮子くが しずこ
    七年前に算哲に雇われた図書掛り。シニカルで博識無比でやっぱり物凄い衒学趣味。ちょっと相手したくない。
  • 古賀 庄十郎こが しょうじゅうろう
    易介と同年代の召使。本件第二の犠牲者、易介が吊具足の中にいたことを把握しており、その異常にも気付いていた……いや、なら助けろよ。
  • 田郷 真斎たごう しんさい
    執事で著名な中世史家。半身不随で手動の四輪車を使っている。

 随分沢山の登場人物があるように見えますが、降矢木算哲から嵐鯛十郎までは過去の事件の登場人物です。あと纏めてて思いましたが、算哲の夫人ダンネベルクも乳呑児のうちに海外から連れて来たんですね。物凄く倒錯的なかほりが。
 更に文中でよく解らないのが、セレナもクリヴォフも「夫人」と記述されているんですよね。一体誰の夫人? それとも婦人の誤記なのかしらん……まさか算哲が多妻一夫だったわけでもないでしょうが……。

 謎は上記以外にも多々存在します。鈴を鳴らして動くテレーズ人形、算哲の遺した黒死館の邪霊の図、原理的に発する筈のない鐘鳴器の倍音、伸子の鐘楼での不可解な失神、本館と造園倉庫の間を往復した二条の足跡と乾板の破片、降矢木家の遺産相続問題……。法水と黒死館の面々との会話も謎ばかり、何を表しているのか想像もつかないような中世欧史にでも出てきそうな詩の応酬……。馴染みが無さ過ぎて乾笑いしか出てきません……。
 文中にもこれまで以上に図説とか特殊記号とか典拠概説とか記されています。そしてそれらが何一つ、知識量が圧倒的に足りない筆者には理解出来ません。おうふ。もう前作までに感じた文中の言葉が解らないとか、読み進め難いとかいったレヴェルを一足飛びに飛び越えて、そのまま月にでも飛んで行ってしまったかのような。馴染みの無い神秘学や古代秘教周りを題材としている事も御座いましょうが、それにしても情け無くなる位コテンパンに解りませんでした。まだまだ学ぶ事は多そうです……。
 ところで本作は独逸の文人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ著『ファウスト』を題材として執筆されているそうです。筆者もその名前くらいは聞いた事が御座いますが、まだ読んだ事が御座いません。これは手を出してみるべきか。

 さる先生の解説では、本書は作者の好きなオモチャを、これでもかと詰め込んだオモチャ箱なのだそうで。何と申しましょうか、実に言い得て妙です。筆者も理解出来ないなりに、時に雰囲気を味わい、時に情緒を嗜み、時に心情を覗きして、つまり頭カラッポで何とか読み終えたわけなのですが、それでも本小説内にちりばめられた歴史的、宗教的、神秘的、占星術的、詩学的、物理的化学的数学的ナンタラカンタラな一つ一つは、いち在野の好事家魂のようなモノをちょいちょい擽るのでした。
 またさるレビューワの方も、小説、本なのに図書館みたい、と実にオモシロイ表現で評しておりました。特に興味あるものにぶつかると、もっと深く追求したくなる。典拠を探りつつ、よくよく読み返して意味を知り、更にまた周辺知識を拾い集めながら理解を深めていきたくなる。探究心というものでしょうか、そうした知識欲に火を点ける、実に罪深い小説です。

 何だか本小説の読後所感と言うには少々御座なりではありますが、今の筆者ではこのように評価するより仕方無いのも事実と受け止めたうえでの事で御座います。いやもうこればかりは仕方無い、無知というのは罪ですね。しかし何と申しましょうか、もうココまで突き抜けられたら仕方無い! と潔く諦められるような、いや諦めちゃ勿体無いんですが、そんな印象的にしか説明の付かない……これもまた奇書と呼ばれる所以なのかも知れません。これはちょっと、改めてつまみ食いみたく読み返したいなと思える一冊でした。

 まあしかし、だ。法水はちょっといい加減己の立場を弁えて仕事した方が良いと本気で心配になる。特に今回割と法水が追い詰めたせいで悲劇が起きているような面も……人がしんでんでんでんー。

 そんな感じで。